Kokeshi Second Angle,仮説だらけのこけし研究レポート,鳴子系利右衛門系列,遊佐福寿

鳴子_福寿_斜め笠
遊佐福寿工人といえば「勘治型」が広く知られていますが、創作こけしも数多く作られていて、伝統こけしと創作こけしを融合させるという新たなスタイルにも挑んでいました。

中でも写真の2本は非常に特徴的なもので、左の作品は鳴子温泉周辺の商店に寄贈されたものと言われています。
左の顔面に立体感を持たせた作品は一見するとグロテスクにも感じますが、見る方向や陽の当たる方向が変わるごとに表情が変化していく、とても面白い作品です。
個人的には米国Coleco社の"Cabbage Patch Kids"(キャベツ畑人形)を連想してしまうのですが…。

右はいわゆる「斜め笠」。笠をかぶったこけしは数多くありますが、斜めにかぶったものは非常に珍しく、そのキュートさに惹かれるものがあります。

 

さて、この「斜め笠」、頭部と笠はひとつの材料から作られています。接着や結合をせずに頭部と笠を作り出しています。
眺めていてまず感じるのは「これはどのように作ったのだろうか」という疑問です。
ロクロは軸を中心にして回転体を作り出す機械ですが、普通に回転させただけでは斜めの笠を作ることはできません。

@stijprojectが投稿した動画


笠と頭部の位置関係を動画で見てみます。
前半は頭部を軸に回転させ、後半は笠を軸に回転させています。こうすると2つの回転軸が存在することが分かります。加えて経年で変色した木地をよく見ると、カンナを挽いた跡がはっきりと分かります。
すなわち、頭の部分を作るのに2回ロクロをかけています。

鳴子_福寿_斜め笠
さらに作品写真に2つの軸を描いてみると、ろくろをどのように回していたかが理解できます。
ここから仮定できる作り方は次のような手順になるかと考えられます。

  1. はじめに円筒形の材料を青い線に沿ってロクロにセットし、笠と頭部の上方を挽きます。
    材料は回転軸「Axis 1」を中心に回ります。この際、次の工程に必要な首のはめ込み部分と、材料を固定するロクロのツメ(チャック)を引っ掛ける部分の材料は余裕を持って残していると考えられます。
  2. 笠と頭の一部を引き終わったのち、赤い線に垂直になるように材料の首元部分をカットしロクロにセット。
    材料は回転軸「Axis2」を中心に回ります。頭部の下半分と胴体のはめ込み部分を挽きます。

福寿工人がご存命ならこの仮説の真偽を確かめられるところですが、今となっては残された作品から推定するしかありません。もしお話できる機会があったとしても簡単には教えず「よく見て考えてごらん」と言ったかもしれません。

ちなみに外国の木工旋盤界隈ではこの複数の回転軸で加工する技法を"Multi Axis Turning"と呼んでいて、材料をらせん状に加工する際に使われています。

Kokeshi Second Angle,鳴子系

東京オリンピックといえばやはり日本の歴史の1ページに記述される1964年(昭和39年)大会です。
こけしたちもオリンピックで大活躍しました。
こちらがその作品です。背景が緋色のフェルトになっているため、少し目がまぶしくなるかもしれませんがご了承ください。

鳴子_東京五輪こけし_1964

1964年の東京オリンピック開催時に記念品として選手や関係者にプレゼントされたこけしです。大きさは6寸、製作総数は12000本。そのうち数本が鳴子に現存していると言われています。

岡崎斉一工人の所蔵する「オリンピックこけし」は雑誌「こけし時代」などで紹介されご覧になった方も多いかと思いますが、上画像の作品は鳴子温泉街のとある商店で所蔵しているもの。描彩にバリエーションがあったことが分かります。

こちらはKokeshi Second Angle が所有する東京オリンピック寄贈こけし。
胴模様が「菱菊」になっているヴァージョンです。

鳴子中学校には当時「こけしクラブ(こけし教室)」という団体がありました。木地技術の継承と後継者育成を目的として、ろくろを使った木材工作や卒業記念品を製作するなどの活動を行なっていました。当時は卒業と同時に働きに出る生徒も多いため、現在の学校におけるクラブ活動よりもむしろ職業訓練プログラムとしての色合いが強かったと考えられます。

当時の校長先生の発案で「1万本プロジェクト」がスタートしましたが、選手たちへ送り届けるまでにはさまざまな苦労があったそうです。
木地挽きから描彩まで部員を中心に行ない、生徒たちも「臨時部員」となって製作に参加しました。生徒への技術指導は岡崎斉司工人をはじめ鳴子のこけし工人たちが担当しました。

背面には日本スポーツ少年団(JJSA)のエンブレムシールが貼付されています。これは五輪選手への記念品等の贈呈は体育団体を介して行なう必要があったためです。件のこけしも地元のスポーツ少年団員たちが作って寄贈した、という体裁になっています。

底面には「Kokeshi Room, Narugo J.H.School, Miyagi Pref. Japan」の英語表記。訳すと「こけしクラブ」ではなく「こけし教室」となっている点に注目。

底面中央部に直径1cmほどの穴が開いているのは、5カ国語(英、仏、独、西、日)で書かれたメッセージカードの巻紙を入れるためです(下写真参考)。

鳴子_東京五輪こけし_メッセージ巻紙_1964メッセージを読んでみると

「こけし」は数百年前から日本の東北地方に伝わる木製の人形で、武将の勝利を祈念するマスコットとしても愛用されていました。

というくだりがあるのですが、この説の由来となった文書や記述はいったい何だったのでしょうか? この箇所においては少なからずの創作があるのではないかと思ってしまいます。

1万本プロジェクトに携わった部員や生徒の中にはこけし工人の道に進んだ人もいます。ちなみに当時部員だった桜井昭寛工人は描彩を、クラブ部長を務めた岡崎斉一工人は主に木地挽きを担当したそうです。

さて、これら掲載画像のこけしは誰の手によって作られたのでしょうか?
いろいろと謎解きをしたくなる作品です。