この「鳴子温泉案内(附玉造温泉案内)」は、1917年に陸羽東線が全通した5年後、鳴子に鉄道がきて7年後の1922年(大正11年)に発行された冊子です。鉄道開通で今後の発展を期待された時代に刊行され、その後現実に全国的に名の知れる温泉地となりました。
かつての鳴子温泉の様子を知る一資料として入手しましたが、中でも巻末の「鳴子特設電話番号早見表」がとても興味深く、現在も営業を続けている店舗施設がよくわかります。たとえば3番が鳴子ホテル、21番が玉子屋本店、48番が遠藤旅館(現・いさぜん旅館)といった具合です。この時代に約70回線が引かれていました。ちなみに仙台市内は1915年で約1374回線です(→仙台市科学館・電話の歴史)。
ちなみにこの冊子には「こけし」ということばは出てきません。「木地玩具」というまだまだ広範な表現になっています。
「漆器は慶安(1648-1652)に始めて文政(1818-1831)に加工し、木地玩具は安政(1855-1860)以来改善進歩し…」
鳴子温泉案内, p57.
とあります。
こちらは昭和に入った1928年(昭和3年)に鉄道省仙台鉄道局(現・JR東日本仙台支社)が編纂した「東北土俗玩具案内」です。
鉄道を管轄する機関がなぜ郷土玩具に着目し、紹介したのでしょうか。鉄道を使った旅行喚起に活用できる可能性があったからではないでしょうか。
余談ですが、新年に神社仏閣へ参拝する「初詣」と呼ばれるものは、1880年代(明治中期)に東京の電鉄会社による鉄道利用客の増大をねらった宣伝から広まっていったと言われています(→この辺は平山昇氏の「初詣の社会史」に詳しい)。
「私共はかうした郷土玩具をたづぬる楽しい趣味の旅も、これまでの旅行に加へられねばならぬと考えます」
「東北土俗玩具案内」, はしがき
従来の商談に行く、法事に行く、療養に行く…といった「用事を済ませる」ための旅行ではなく、ひとつのテーマを設定しそのテーマに関連する場所へ行って「用事を見つける」スタイルの旅行を提案するという、現在の観光庁あたりが「××ツーリズム」などと提案しているものにも似た、とても現代的なものです。
「松川達磨」や「鳴子こけし這子」のような「地名+玩具名」という表記もこの書物のあたりから出てまいります。後年に各地で呼び方が異なっていた木地人形を「こけし」という名に統一させる動きはこの延長線上にあるのではないかと思います。玩具の名前を固定させ、前置の地名を変化させることで地域性を強調したわけです。