Kokeshi Second Angle,こけし道中,鳴子系佐藤俊雄,大沼君子,岩太郎系列

The Kokeshi doll filled with memories of the trip is the only masterpiece for travelers. Cameras and videos leave vivid records, but the Kokeshi dolls leave memories clear.


『手帖(686号,p17-,2018.3)』に掲載された、織物作家の和田薫子さんが 大沼君子 工人の思い出を綴った記事がとても印象に残り、思わず手に入れたのがこちら。

旅の思い出が染み込んだこけしは自分にとってかけがえのない名作なんだと記事を読んで思いました。

カメラやヴィデオは記録を鮮明に残すけど、こけしは記憶を鮮明に残すのでしょうか。

残念ながら私は君子工人にお会いすることはできなかったけど、作品を眺めていると総合支所裏の坂道にある町並みと匂いを思い出すことができます。


新屋敷・君子工人作と、参考として鷲巣・ 佐藤俊雄 工人作(左)。
君子工人は注文が入ると、東鳴子の俊雄工人(師匠は君子工人の父、 大沼新兵衛 工人)に木地を頼んでいたことが記事で触れられています。

Kokeshi Second Angle,仮説だらけのこけし研究レポート,鳴子系

鳴子_勇_1971

黄鳴子とは

黄鳴子」とは、大正中期からに昭和初期にかけて鳴子で作られた、黄色の下地塗りを胴部に施したこけしのことで、西田峯吉氏(鹿間時夫氏という説もあり)による造語です。

起源は諸説ありますが、肘折こけしで胴を黄色く塗る手法が隣接産地に伝わったというのが有力です。手間と時間のかかる漂白や研磨をせずに木地のくすみをマスキングできることから大量生産に適しているとして広まっていきました。

戦後は黄色に塗らず、いわゆる「白胴」で製作されることが主流になりましたが、現在も当時の作例を継承・復元した作品が僅かながら作られています。

「黄鳴子」の発生過程はいくつかの文献を当たると出てきますが、「なぜ黄色に塗らなくなったのか?」という点は個人的に興味深く感じるところが数多くあります。

興味をそそる「消えた理由」

「辞典(p164)」を読んでみると
1.戦後、研磨を丁寧に行なうなど加工技術に変化があった
2.戦時疎開している子どもから「黄疸みたいだ」と揶揄された

という理由が書かれています。
1.は電動式ろくろの登場で省力化できたことから研磨が容易になったり、薬品(過酸化水素、アンモニア)や機械を使った木材の処理技術が普及したからと理解できます。

ただ、2.の「黄疸みたいだ…」という理由は果たして本当なんだろうか…と思います。
戦中の一時期、鳴子では東京からの疎開児童を多数受け入れていました。親元から離れた疎開児童たちにこけしをプレゼントしたというエピソードが残っています。そこには胴を黄色で塗った作品もあったと推測されます。
こけしの扱い方に慣れてない児童たちは湿った手でこけしを握り、当然ながら色が手につくわけです。
そこで「(手が黄色くなって)黄疸みたいになっちゃったよ…」と訴える児童が少なからずいたのではないかと思います。

現在は顧客の強いクレームによって商品の仕様やサービスが大きく変わるケースが多々ありますが、国難である戦争の時代に児童のクレームひとつで数十軒もあるこけし工房が一斉に作らなくなるようなことがあるのでしょうか。

「こけしは玩具でメインユーザーが子どもたちだから、子どもたちの意見を忌憚なく聞き入れて商品に反映させる」というカスタマー・サティスファクション的なスタンスが戦中から終戦直後にかけて本当に存在していたかどうかは考えてみる余地はあります。

染料に着目

戦後まもなく「黄鳴子」が消えた理由にはもっと決定的なものがあるのではないか? と感じていくつかの仮説を立ててみることにしました。
そこで注目したのはこけしの材料のひとつ、「染料」です。

こけしの絵付けには墨と染料が使われています。
なぜ染料なのか? という理由には、

  1. 安価で入手しやすい
  2. 玩具である
  3. 透明性があり木の質感が残る

が挙げられます。
併せて、戦前に使われていた主な染料を挙げてみます。

染料名備考
赤色エオシン、スカーレット
黄色オーラミン
緑色マラカイトグリーン
紫色メチルバイオレット

表に記した染料のほとんどは当時、食用色素として広く流通されていたもので、薬局や食料品店で入手することができました。地域には小正月にカラフルな「みずき団子」や「団子さし」を作って供える風習がありますから、これらの食用色素は常に入手できたと考えられます。

また、こけしをはじめとする木地玩具は子どもが手にして遊ぶことを大前提に作られているので有毒な色素は使えません。「有害性着色料取締規則」(1900年制定)は食品のほか、乳幼児用玩具も対象になっていました。
当時、食用色素として出回っていたこれらの染料は「口に含んでも大丈夫」と考えられ、使用されていました。

さらに、木材に色をつける材料には、漆、水彩絵の具、油彩、岩絵具などがありますが、これらは高価なうえ、都市部の画材店など入手できる場所が限られていることから材料の確保が困難です。

こけしに使う材料を当時の地域における風習、交通・流通事情から見ていくと結構興味深いものがあります。

物資不足とオーラミン除外が原因か?

では、「黄鳴子」の消えた理由と、染料にはどのような関係があるのでしょうか。
ひとつは戦中から終戦直後の物資不足、もうひとつは新たな食用色素の規制です。

戦中の物資統制で化学製品の入手が困難になります。染料も化学製品のひとつですから入手はおのずと困難になることが考えられます。終戦を迎えても日本は敗戦しましたから物資不足は戦時中以上の状態になります。

ならば、物資供給が回復すれば染料も入手しやすくなるから黄色のこけしが復活するのではないか、と思うのですがそうはなりませんでした。どうしてだろうか…と疑問が出てきます。

ここでとある法規が目にとまりました。日本国憲法下で定められた食品衛生法(1947年制定)の具体的な施行をまとめた厚生省令食品衛生法施行規則(1948年施行)です。これらの法規は戦前の「有害性着色料取締規則」と同様、乳幼児用玩具に対しても適用されました。

この施行規則から除外された食用色素があります。それが黄色の色素、オーラミンです。

オーラミンは発色が鮮やかでしかも安価なため、服飾品の染色や食品の着色など幅広く使われていました。特に漬物のたくあんではその見栄えのよさからオーラミンを使った着色がポピュラーでした。

ところがオーラミンには強い毒性があることが明治期から指摘されていました。が、当時の法規は「使用してはならない」と明記していなければ使用できることを原則にしており、有害だと分かっていても使用されてきたのが実態でした。
一方、戦後の法規では明確に「使用できるもの」を記載することになり、法規に記載されない食用色素は使えなくなったのです。

法規的に除外されれば食用色素として流通させることはできません。いままで容易に購入できたオーラミンは一転して入手困難になります。

戦中から終戦直後の物資不足と、戦後の法規制から材料が手に入らなくなり、黄色いこけしは姿を消してしまった、と考えることが可能ではないでしょうか。

ちなみに、法規の施行後も「代替品では色が出ない」として在庫品のオーラミンを不正使用していた食品製造業者も一部にありました。消費者団体の「オーラミンたくあん追放運動」が盛んになり、厚生省(当時)が食品工場を一斉摘発して使用を禁止させたのは1953年です。

なお、エオシン(食用タール色素赤色103号)は1971年に除外、マラカイトグリーンもかつてはそら豆の着色に用いたり、熱帯魚の白点病治療剤として粉末状のものが市販されていましたが毒性の高さから入手困難になりました。

現在の使用染料

現在作られている「黄胴のこけし」に使われている染料は「タートラジン」と呼ばれるもので、食用タール色素黄色4号として市販されています。市販の食用色素3色(赤、黄、青)を組み合わせることで緑色と紫色を出すことができます。

以下はいわゆる伝統こけしの工房で現在使われている染料ですが、近年のこけしは乳幼児の玩具というよりも観賞用の人形として認識されていることから、使用する染料も食用色素に限定されず、衣料品用の染料も使用されています。また、創作こけしにおいては顔料やポスターカラーを用いて彩色することもあります。

染料名備考
赤色ニューコクシン、アマランス
黄色タートラジン
緑色ブリリアントブルーとタートラジンの混合
紫色ブリリアントブルーとニューコクシンの混合、アシッドバイオレット

参考

→「着色料規制法令の変遷とその考察(第2報) 食品衛生法施行から現在まで」(PDF)
→「我国における着色料取締りの歴史 : 歴史的経緯からみた着色料の存在意義
→「ミニ染色講座(8)合成染料物語」(名阪カラーワーク研究会,1999)