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青根・佐藤忠工人作、幸之助型、たつみ在庫、1982.

「パトスあるこけし」ってなんだろうね…と考えさせられる作品群。
こちらは伝説のこけし店「たつみ」の在庫品。

戦前、アメリカとフランスに渡航し写真を学んだ店主の森亮介氏がいわゆる伝統こけしに魅了され、私財を投じて当時の現役工人に復元・写しを依頼し、その作品を頒布したのが「たつみ」です。

産地に自らグリーン車に乗って赴き、工人に復元の意味を熱く説得し注文するときも100本単位で全て買取、収集家にも作品の価値を身振り手振りで熱く説いたといいます。(→参考:Kokeshi Wiki記事

結果として在庫がこのように…ビジネスだけを掲げたらやっていけませんね…

しかし店主の情熱と工人の情熱がひとつひとつに込められた作品が数十年の時を越えて平成が終わろうとしている頃にあらわれたのは何かのメッセージではないかと私は感じます。

冊子「こけしのささやき」と「技の手紙」

「たつみ」の店主、森亮介氏について知りたいと思っていたところで資料を入手。

冊子「こけしのささやき」の記事の一部は後述の「技の手紙」で触れられているので、比較的入手しやすい「技の…」を手に取られるとよろしいかと思います。

佐藤誠工人の息子、光良氏による「技の手紙」を読んで感じたのは、亮介氏は文芸・劇画雑誌の編集者のような役割だったのではないかということです。

「作家には描きたいものと描けるものがある。描きたいものはだいたい既製品のコピー」とは集英社の某漫画雑誌編集長の言ですが、作り手の「できるもの・できること」を引き出し、見いだし、高めていく役割を持つ人物はなかなかいないなと思います。ほとんどの場合「自分が欲しいコピーを作らせたい」で作り手に接していますから…

ちなみに工人へのアドバイスは速達郵便で送られてきたとのこと。今なら電話、ファクシミリ、e-mail、ビデオチャットとかでやり取りするのだろうと思うのだけれど、多分それらを使っていたら名作は生まれなかったんじゃないかなと思います。相手のことばを受けてそれを返す時間は短くても長くてもよろしくありません。

「要は実力をつけ、誰にでも感銘を与える事の出来るように貴方の心をこめての作品を地味乍ら努力して作って行けば、賞も貰う事も入選することも必要ないと思います」

(技の手紙、p117.より)

スケールの小さい、しかも短期間での賞賛が収入につながっているのは現在のネットにおけるビジネスモデルですが、やはり本質を追求するものが時代を超えて残るのではないかと考えます。

「たつみ」頒布品より

特に個性的な作品をピックアップしてみたいと思います。

青根・佐藤忠工人作、菊治古型細胴8.2寸彎曲目、1979.

井の頭に店舗を構えていた頃(1974〜1988、「第三次たつみ」と呼んでいる)の1979年に頒布された佐藤忠工人による菊治古型写し。忠工人が父親の型を研究し始め、いわゆる「猫目」と呼ばれる眼の描き方を試行していた頃の作品です。
当時製作された菊治古型はこの彎曲目を含め4種類ありました。

仙台・佐藤巳之助工人作、周助昭和型、年代不明(推定1965〜1970頃).

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一度見たら忘れられない強烈な表情とフォルムで熱烈なファンも多い湯田こけしたちに集まってもらいました。

湯田こけし 左手前から佐藤佑介(佑一)、小林順子、佐藤佑介の各工人作。
左奥から小林定雄(2本・2015年)、小林善作(3本・1966年頃)の各工人作。

湯田_善作_1966頃 小林善作工人の晩期作品。「エヘッ」と言っていそうな微笑は善作工人独特の面描です。

湯田_佑介_善作_定雄沢内地域に伝わる昔話「およね伝説」をモチーフに作られたという髷こけし、「およねこけし」の三者三様。前出の2作と定雄工人の作品。

湯田_善作_1966頃湯田_善作_順子_佑一_85-86右の佐藤佑介工人(1986年作)は小林定雄工人から木地を教わり、北海道江別で製作していましたが現在は休業。中央の小林順子工人(1989年作)は定雄工人の息子さんの奥方で、仕事や家事の傍らで製作をしております。この表情、個人的にはとても気に入っております。

工人のご親族が仕事や家事の傍らで製作に携わったケースが湯田こけし界隈には多く見られ、中にはご近所の方によって作られた作品(藤戸一栄氏)も僅少ながら存在します。

こちらが藤戸一栄氏(1957- )の作品。
ありふれたことばで言えば、こけしの持つ素朴な美を見事に表しています。
この安定感のある作品を生んだのが当時14歳の、こけし作りを教わって間もない中学生だったという事実に驚愕されます。木地挽きや描彩も一人でこなしたというのだからさらに驚きです。


一栄氏は湯田湯本の生まれ。1971年頃から小林定雄工人に木地挽と描彩を教わりこけしを作ったとされています(→「全工人の栞」,下巻 p214.)。作品は東京都内の店舗に置かれ収集界では「期待の新人」と話題になったそうです。
定雄工人のこけし作りを見て興味を覚えた近所の中学生が、好奇心と努力と持ち前のセンスをもって作ったこけしは平地人(都市生活者)を驚愕せしめたわけです。

この作品を見ていると、自分自身が14歳のときにどんなことに興味を持ち、そして行動していたのかをふと思い返します。周囲からいろいろなことを教わりながらも「もう子供じゃないんだ」と突っ張ってみることで自らの可能性を知っていく年頃…ときに大人顔負けの力が出たりするものです。


底面にはしっかり「十四才」と書かれています。
さきの参考文献には「1年近くで転業」とありますが、学業や進学等で忙しくなり作る時間がなくなったのだろうなと思われます。別の作品に書かれた底面の署名には「十六歳」とあり、高校2年生頃までは製作していたことが分かります。

ちなみに一栄氏は現在も湯田湯本にお住まいです。地元ではマラソンランナーとして知られ、東北各地のマラソン大会に参加したり、地元の駅伝チームの監督を務めるなどご活躍を続けています(→西和賀町「広報にしわが」2011年11月号, p11(PDF))。

湯田_輝子
2015年の産地訪問の際にお話を聞かせていただいた小林輝子夫人の作品。

湯田_輝子輝子夫人は描彩のほかにも、自ら木地挽きも行なっていた時期があります。

ギャラリー