
鳴子から80キロ近く離れた横手で製作された子野日幸助工人作。木地がイタヤカエデ、面描から作者が推定されます。大胆な胴模様とちまちまとした眼点や鼻に魅力を感じます。

昭和20年代前半の鳴子こけしは他の時代と大きく異なる特徴があります。
- 高い肩
- 丸みの強い頭部
- 湾曲の強い瞼と大きい眼点
- 染料ではなくポスターカラーによる描彩
- 模様は菱菊
いわゆる「鳴子共通型」と呼ばれるものです。「こけし辞典」を読むと需要増大で分業生産を行なうため、製造プロセスを規格化したことが背景にあるそうです。特に3.〜5. は特に生産数の多かった湯元地区で製作された作品によく見られます。
戦後、観光需要とともに土産品の需要も増大しました。そこで登場したのが「新型こけし」や「お土産こけし」です。これらは仙台や白石、群馬の前橋の土産品を扱う企業によって製作されました。工場建設や工作機械などの設備投資を行ない生産体制を構築していきます。これにより他地域へ製品を送り出すことが可能となり、東北地域以外の観光地でも売店にこけしが並ぶようになります。
一方、従来型のこけしを製作していたのは個人商店が殆どで、戦後の混乱期に新たな設備投資を行なうことは厳しいものがあります。そのような中で既存の設備とマンパワーで大量生産体制に挑戦した産地が鳴子です。

上写真は観光ガイドブックに掲載された、1950年代の鳴子温泉・湯元界隈の風景です。
老舗高亀から滝の湯方向を撮影したものと思われますが、ここに写っているこけしを見ると当時製作されていた形状がわかるかと思います。
戦前からこけし作りに携わっていた幸助工人にとって、終戦後の需要増大で急激に表情の変わった鳴子こけしをどのように見ていたのでしょうか。
Kokeshi Wikiの記述によると幸助工人は1946年に戦地から戻り1947年に一度転業していますが、さてこの作品、わずか1年の間に作られたものなのでしょうか。ヤフオクに同時期の作品が出品されたので複数製作されていたことは確かです。


