Kokeshi Second Angle,鳴子系利右衛門系列,子野日幸助

鳴子から80キロ近く離れた横手で製作された子野日幸助工人作。木地がイタヤカエデ、面描から作者が推定されます。大胆な胴模様とちまちまとした眼点や鼻に魅力を感じます。

昭和20年代前半の鳴子こけしは他の時代と大きく異なる特徴があります。

  1. 高い肩
  2. 丸みの強い頭部
  3. 湾曲の強い瞼と大きい眼点
  4. 染料ではなくポスターカラーによる描彩
  5. 模様は菱菊

いわゆる「鳴子共通型」と呼ばれるものです。「こけし辞典」を読むと需要増大で分業生産を行なうため、製造プロセスを規格化したことが背景にあるそうです。特に3.〜5. は特に生産数の多かった湯元地区で製作された作品によく見られます。

1950年代の鳴子温泉湯元・湯の街通り 新旅行案内2 東北、日本交通公社、1957.

上写真は観光ガイドブックに掲載された、1950年代の鳴子温泉・湯元界隈の風景です。
老舗高亀から滝の湯方向を撮影したものと思われますが、ここに写っているこけしを見ると当時製作されていた形状がわかるかと思います。

戦前からこけし作りに携わっていた幸助工人にとって、終戦後の需要増大で急激に表情の変わった鳴子こけしをどのように見ていたのでしょうか。

Kokeshi Wikiの記述によると幸助工人は1946年に戦地から戻り1947年に一度転業していますが、さてこの作品、わずか1年の間に作られたものなのでしょうか。ヤフオクに同時期の作品が出品されたので複数製作されていたことは確かです。

Kokeshi Second Angle,鳴子系佐々木久作,利右衛門系列

なぜ中古のこけしがアンティーク玩具店ではなく、古書店に並んでいるのだろう? という疑問をかつて持ったことがある私ですが、近頃になってその意味が自分なりに理解してきました。
一本のこけしには一冊の本に匹敵する情報が詰まっているからなのだなと…。

さて今回は「伝統こけしのデザイン」(Cochae 2013)のページデザインを思い出すような背景色で撮った 佐々木久作 工人(1913-1983)の作品です。

久作工人は秋田・象潟の方。今は「にかほ市」になっています。
近年注目されている版画家・池田修三氏(1922-2004)と同郷です。

調べてみると来歴がなかなか興味深く、往年のテレビドラマ「おしん」を地でいく人生を送られていたことを知りました。

本荘の老舗、「三之助もろこし本舗」で丁稚奉公中に日中戦争で徴兵、その後象潟で菓子屋さんを開業するも砂糖などの材料入手困難に陥り、新たな職をつけるために選んだのが木地職人の道でした。戦後、再び菓子屋さんを営む傍ら趣味でこけしを作っていたとのこと。

佐々木久作工人は皆川元一工人とともに秋田県工芸指導所(現・秋田県産業振興センター)に入所し、木地挽きの技術を修得しましたが、そのときの指導員が高橋盛工人でした。
なぜ秋田のこけしで鳴子の顔なのかという答えはここにあります。

時代背景を簡単に書くと、1930年代始め、国立工芸指導所が仙台に設立され、以後東北各地に指導所が作られていきました。地域の資源を活用して特産品を作っていこうというねらいがありました。一方、冷害による凶作や15年戦争突入など地域をとり巻く環境は激しく変化していました。

戦後、久作工人は菓子職人に復職しましたが、1967年頃から愛好家たちによる復元依頼を受けて描彩を行ないます。画像の作品もそのひとつで、鳴子在住工人の木地に描彩を施しています。愛好家たちは地元・鳴子の作風が変化する中で、従来の「意図して狙っていない情感」の余韻が残る作品を探究していたのです。

画像は推定・遊佐福寿工人の木地に久作工人が描彩を施した作品です。木地は日本海側でよく使われるイタヤではなくミズキです。

参考

「こけしに鎮魂の思い」(秋田魁新報 2014.3.2)