なぜ中古のこけしがアンティーク玩具店ではなく、古書店に並んでいるのだろう? という疑問をかつて持ったことがある私ですが、近頃になってその意味が自分なりに理解してきました。
一本のこけしには一冊の本に匹敵する情報が詰まっているからなのだなと…。
さて今回は「伝統こけしのデザイン」(Cochae 2013)のページデザインを思い出すような背景色で撮った 佐々木久作 工人(1913-1983)の作品です。
久作工人は秋田・象潟の方。今は「にかほ市」になっています。
近年注目されている版画家・池田修三氏(1922-2004)と同郷です。
調べてみると来歴がなかなか興味深く、往年のテレビドラマ「おしん」を地でいく人生を送られていたことを知りました。
本荘の老舗、「三之助もろこし本舗」で丁稚奉公中に日中戦争で徴兵、その後象潟で菓子屋さんを開業するも砂糖などの材料入手困難に陥り、新たな職をつけるために選んだのが木地職人の道でした。戦後、再び菓子屋さんを営む傍ら趣味でこけしを作っていたとのこと。
佐々木久作工人は皆川元一工人とともに秋田県工芸指導所(現・秋田県産業振興センター)に入所し、木地挽きの技術を修得しましたが、そのときの指導員が高橋盛工人でした。
なぜ秋田のこけしで鳴子の顔なのかという答えはここにあります。
時代背景を簡単に書くと、1930年代始め、国立工芸指導所が仙台に設立され、以後東北各地に指導所が作られていきました。地域の資源を活用して特産品を作っていこうというねらいがありました。一方、冷害による凶作や15年戦争突入など地域をとり巻く環境は激しく変化していました。
戦後、久作工人は菓子職人に復職しましたが、1967年頃から愛好家たちによる復元依頼を受けて描彩を行ないます。画像の作品もそのひとつで、鳴子在住工人の木地に描彩を施しています。愛好家たちは地元・鳴子の作風が変化する中で、従来の「意図して狙っていない情感」の余韻が残る作品を探究していたのです。
画像は推定・遊佐福寿工人の木地に久作工人が描彩を施した作品です。木地は日本海側でよく使われるイタヤではなくミズキです。
参考
「こけしに鎮魂の思い」(秋田魁新報 2014.3.2)