戦後の最盛期には100人を超えるこけし工人が製作に携わっていたという鳴子系こけし。他系統と比べてもその数は圧倒的です。
これだけ多くのこけし工人が従事していた経緯と背景はとても興味深いものがありますが、まだまだ不明(というか不勉強)な点が多いです。たとえば
「戦後の観光需要の増加とともに観光土産の需要が増え始めると予測され、それに応えるべく木地職人を養成していった」
という説を立てるならば、
「さまざまな種類の観光土産品の中から主力商品としてこけしを選択し、その製造に地域を挙げて臨む」
といったまさに戦後の傾斜生産方式的な態勢が必要なわけで、そのような態勢をどのように築いていったのか? という疑問が出てきますが、本題から外れそうなので話を戻します。
こけし工人の中には、さまざまな事情によってその職を離れる(転業)ケースが数多くあります。世間では離職転職はよくある話ですし、このように書く筆者自身も勤め先が潰れたとか身体を壊したとかの理由で別業種に職を変えていたりします。
ただ、こけし工人と筆者の違うところは「作品が残る」ことです。
残った作品を見たり調べることで、作った人はどんな来歴だったのだろうか、どんな時代だったのだろうか、ふと興味を覚えてしまうのです。
先般、全国こけし祭りに出かけてきた際、日本こけし館内で行われていた中古品オークションで落札した作品です。渋谷安治 工人(1940- )作という珍品系。
1940年生まれ。中学校を出た1956年から地元の木地工場に入り、東鳴子鷲ノ巣の佐藤俊雄工人に木地指導を受けますがこけし製作は見取りです(→「辞典」、p330-331.)。20代前半の1960年代に神奈川県小田原へ転業してしまったので製作期間は約6年と短く、作品も少ないことから蒐集家の間では珍品扱いされています。
髪飾りの形から俊雄工人と同様、大沼新兵衛工人グループの描彩を踏襲していることがわかります。
特徴は小ぶりな鼻と右下に寄った口もとの描彩です。初期の1958年(18歳)作は平凡な口の描き方(→Kokeshi Wiki の画像)、1959年作では特徴的な口もとの描彩がうかがえます(→「東北のこけし」,p107.)。写真の作品は1959年以降の製作でしょうか。
「こけし辞典」の記述では「若手工人にはめずらしく(中略)古雅掬(きく)すべきこけし(→「辞典」,p330-331.)」と評価をしています。
当時の鳴子界隈で見られた「まん丸の頭に、高い肩、大きく湾曲した目じり」という画一的(量産的)な木地や面描のこけしが多かった中で、木地を習得して間もない10代の工人が見取りで作った作品に、かつての鳴子こけしの姿を思い出したの蒐集家もいたのでしょう。