Kokeshi Second Angle,こけしのドラマトゥルギー,遠刈田系大葉亀之進

大葉亀之進

戦国時代は国境警備の要衝だった七ヶ宿町稲子。
現在、集落の人口は3世帯4人、冬期は道路の除雪が行なわれず町場に移住、地デジ化以降は宮城のテレビ放送が視聴できず福島の放送を視聴しているという(→2016.6.30 河北新報記事より→2016.11.17 朝日新聞記事も参照(Wayback Machine 2017.02.02))屈指の秘境です。

その稲子の地に20世紀の初めから終わりまで生活を送っていたのが 大葉亀之進 工人(1904-1999)です。
大正初期に県の地域産業振興補助制度で開催された木地講習会に10代なかばで加わり、佐藤松之進工人(1875-1942)の指導を受けて技術を習得しました。途中、木地製作を幾度か中断するも農林業の傍ら、足踏みろくろ(1975年頃からはモーター式)を使ってこけしを作り続けました。

さて、私が亀之進工人の作品を初めて見たのはネットオークションの商品検索中でした。
芯は強そうだがどこか薄幸そうな面持ちをしたこけしの姿がどこか気になって、手元に置き始めたのです。
それでは機会あるごとに入手した作品たちに集まってもらいましょう。

亀之進工人は描彩の変化が著しい工人として知られていますが、大きく分けて下表のように数回のモデルチェンジがあると言われています。

  1. 製作初期(1919年〜1920年頃・未発見)
  2. 戦前復活期(1941年頃・約100本製作)
  3. 戦後再開期(1958年頃〜)
  4. 1962年前後〜1971年
  5. 1972年以降〜

残念ながら現在、「1.」と「2.」の入手に至っておらず、「3.」から見てまいりたいと思います。

戦後再開期の作品(1958年頃〜)

上2枚は1958年頃〜1960年代初頭の作例です。

「宮城の七ヶ宿・稲子部落を訪ねる(→手帖24号,p22-25,1958.)」を読むと、これらの作品がつくられた頃の稲子地区の様子が理解できます。交通の不便さは現在以上で、福島駅または白石駅から路線バスに乗り、終点に着いたら2時間近く未舗装の道路を歩いてようやく到達できる場所でした。

当時の亀之進工人は林業を兼業していたため、こけしの製作は冬場〜春先に行なわれたそうです。

上がる上がるよ表情が…(1970年代以後)

続いて「4.→5.」に至る60歳〜75歳の頃、1960〜1970年代に製作された作品を取り上げてみましょう。まずはお約束の証明写真風な画像です。

遠刈田_亀之進_1970_1
1970年、66歳作。1尺5寸(約45cm)の大きなこけし。
白石の全日本こけしコンクールで出品されました。

遠刈田_亀之進_年代不明
年代不明。7寸(約21cm)。

遠刈田_亀之進_1977
1977年、73歳作。1尺(約33cm)。
1973年以降に大幅なモデルチェンジが行なわれたあとの作品です。
頭部の形状、手柄模様の描彩、面描ともども従来作より変化しております。

Kokeshi Wikiで「昭和40年代後半から次第に表情の位置が上方へずれ、手柄・胴模様も晩年は相当細いものになった」と記すように、顔のパーツがどんどん上がっていくのですが、これがいかほどなものか、横に並んで確かめてみたいと思います。頭部をカメラに撮ったのち画像の縮尺を合わせて比較しています。

遠刈田_亀之進_1970-1977左は1963年頃から続くモデル(1970年作)、右は1972年から登場したモデル(1977年作)ですが、中央の「年代不明の7寸」は何年頃の作品でしょうか。

この記事を書き始めた頃は1970年〜1977年の間との認識で画像をこのように配置してしまったわけですが、いろいろ調べていくうちに1965〜1968年頃ではないかと推定するようになりました。したがってこの画像は「左または中央→右」と見るのが妥当と思われます。

1972年モデルの相違点

さきまでに「モデルチェンジ」という語句を頻繁に使ってきましたが、改めて1972年モデルではどのような変更が加えられたのか、整理したいと思います。

1967年作(左)と1972年作(右)で相違点を見てみましょう。

  1. 頭部の形状が横に広がり、球状に近くなった
  2. 頭頂に赤点が追加された
  3. 額の飾り模様が横に広くなった
  4. 眉の高さが上がり、カーブが急になった
  5. 下瞼のカーブが急になった
  6. 重ね菊の描法が変わった

これらの変化を加えて製作した作品は、第18回全国こけし祭りコンクール(於・鳴子)で日本こけし連盟表彰を受け、翌年1973年には全日本こけしコンクール(於・白石)で無審査工人の称号を受けました。以後この作風は晩年まで続き、お弟子さん(大葉富男工人、櫻井良雄工人)もこのスタイルを継承しています。

小寸に注目(1960年代〜1972年作以後)


前段で触れた写真中央の作品(上写真左)と、1965年作(6寸・上写真中)、1976年作(4.5寸・参考・上写真右)の姉妹たちに集まってもらいました。このサイズの面描は大寸と比較して目じりを下げ気味に描いて幼さとあどけなさを表しているのではないかと考えます。
1960年代〜1971年作において小寸は幼児から児童的に、大寸はお姉さん的に描き分けていたようにも思われます。

参考映像


こちらは亀之進工人の木地挽きを記録した1992年頃の貴重な映像です。
当時、七ヶ宿町の湯原郵便局に勤務していた局員が制作したもので、鮮やかなカンナさばきに目を奪われます。
モーター式ろくろが導入される1975年まで足踏み式ろくろを使用していたことが映像内のナレーションにおいても触れられています。
この映像を観てふと思うに、亀之進工人が作るこけしの面描は奥さまを彷彿とさせるものがあります。

ちなみにサムネイルに写っているのは亀之進工人の息子さんの大葉富男工人。
富男工人は稲子地区で郵便物の配達業務に携わっていたこともあります。

余談

個人的には1965年頃(61歳)〜1971年頃(67歳)の作品に惹かれます。
なぜこの時期に戦後再開期の型からオーソドックスな遠刈田こけしの型を描き出したのかは考察の余地がありますが、この6年間の短い期間の作品は、地味な中に見える艶めかしさを感じます。例えて近いものといえば、滝平二郎の切り絵が描く女の子像でしょうか。

斜め上からのアングルで鑑賞するときにとてもいい表情を感じるのですが、写真でそれを表現するのはなかなか難しいものがあります。以下は完全なる自分の趣味です。
遠刈田_亀之進_1970_3

遠刈田_亀之進_1970_2

遠刈田_亀之進_1970_4

Kokeshi Second Angle,こけしのドラマトゥルギー北本武,南部系,大沼俊春,松本鶴治_松鶴

松鶴_北本武型この 北本武型と言われる作品。

タイトルには書いたものの、強いていえば「クレオパトラとツタンカーメンと楠田枝里子を足して3で割った」ような面持ちというのが個人的感想です。白くきめ細かいアオハダの木地、首がクラクラと動く工法は南部系こけしのスタイル。

作品の製作者、松本鶴治工人(1922-没年不明)は1922年3月11日に京都・舞鶴の生まれで、戦後に花巻へ移住し木地を修得しました。戦前は日本画を習っていたとのこと(「全工人の栞」,上p232.)。作品底面の署名は本名ではなく「松鶴 作」と記載されています。
こちらは鶴治工人による色紙。多芸で野生動物の剥製も手がけていたそうです。

さてこの作品、いわゆる伝統こけしの範疇に入れるかそうでないかの判断が人によって分かれるところです。
盛岡・花巻周辺のこけしは系統系列主義で捉えると伝統こけしの 「枠スレスレ」か「枠外」に分けられてしまうものもありますが、個人的にはこの「枠スレスレ」な作品が気になってしまうのです。伝統性とは何かを考えるとき、「何をもって線引きをしているのか」、「誰によって線引きがなされたのか」、その外周や辺縁を見ることも必要なプロセスではないかと感じます。

「辞典」によると、この模様を考案した北本武氏(1913-1984)は福島の二本松生まれ。
盛岡駅前通(当時は平戸という地名だった)でお菓子屋さん「玉屋」を営んでいましたが、こけしに興味を持ち店内で売り始めたところ民芸品の販売を本業にしてしまったという方です。

ついには自分が考案した模様を安保一郎工人や松田精一工人の挽いた木地に描くようになってできた作品がこの「北本武型」で、店舗に隣接してこけし製造工場まで作ったとのこと。

木地製作で南部系工人と接点を持っていることからいわゆる伝統こけしの文献で紹介されるようになりましたが、作品についてはもはや郷土人形の範疇であると一刀両断しています。

ただ、キナキナの製法が確立されていた地域に、他地域のこけし製法が加わり、さらに官民による観光土産の商品企画が加わり…という岩手県央部における木地・民芸産業の歴史的な流れが一本の作品から垣間見える点でとても興味を惹く作品と言えます。

3人の描彩者とその作品

北本武型_武_俊春_松鶴_1

初期の作は北本武本人の描彩であったが、のちに大沼俊春が自挽描彩をするようになり、現在では花巻の松本鶴治が製作している(松鶴型)。したがって北本武型には三人の描彩者がいることになる。(「辞典」,p163)

ということで集合してもらいました。

左から北本武氏による面描作(1)、大沼俊春工人作(2)、松本鶴治工人作(3)。
(1)は考案者本人が描いたものでこれがオリジナル北本武型となります。首がクラクラと動く南部仕様で、頭を持ち上げると1ミリほど接合部分が見えます。こちらは胴模様のないタイプで鬢飾りの本数は8本。

(2)を製作した俊春工人(1929-2007)は鳴子の大沼甚四郎工人(1882-1944)の養子で、戦後は鳴子から花巻〜二枚橋〜盛岡の間を転居し晩年は平泉に居住していました。盛岡時代は北本氏の工場にいたことがあり、ここで北本武型を修得したと考えられます。

写真の作品の底面を見ると、前所有者のものと思われる「4.8」という数字が鉛筆で記入されています。これが製作年代だと仮定すると平成4年(1992)8月で、近年も北本武型を製作していたことになりますが、この数字が単に「前所有者が入手した年月」である可能性もあります。こちらも南部仕様のはめ込み式で鬢飾りは6本。

ちなみに、赤色が滲んで見えるのは使用している染料(赤色103号・エオシン)の浸潤性が高いためです。

そして記事冒頭写真で掲載した(3)の松鶴作。1960〜70年代初期の作品は写真のように目鼻立ちのはっきりとした面描をしていますが、80年代以降の作品では上瞼が細くなったり、鬢が短くなったりと変化があります。鬢飾りは5本で、6寸で製作された作品には4本の飾り線が引いてあります。

ここで注意したいのは、飾り線の本数が何本であるかということは作者や製作時期を判断する際の材料のひとつに過ぎません。作品から自分自身が何を感じ、考えたかが大切であることは忘れてはなりません。
以下の作例を見てみましょう。


底面に「松鶴 北本武型」と記載されている作品。
描彩がなく、キナキナの変化形の位置づけで製作されたのでしょうか。

この作例から推測されるのは「北本型」とは木地の形状であり、描彩をもって「型」を決定づけるものではないということです。それゆえに工人ごとに描彩のバリエーションがあるのだと思います。

「玉屋」その後

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かつて民芸品店「玉屋」があった場所。

こちらの開運橋通店舗のほか、大通りサンビル(岩手県産業会館)1階にも店舗を持っていましたが閉店。開運橋通店舗は「玉屋ビル」とかつての屋号が残っています。大きいマキネッタのオブジェが目印の喫茶店「カプチーノ 詩季」と居酒屋「じょ居」が現在営業しております。

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