Kokeshi Second Angle,鳴子系

東京オリンピックといえばやはり日本の歴史の1ページに記述される1964年(昭和39年)大会です。
こけしたちもオリンピックで大活躍しました。
こちらがその作品です。背景が緋色のフェルトになっているため、少し目がまぶしくなるかもしれませんがご了承ください。

鳴子_東京五輪こけし_1964

1964年の東京オリンピック開催時に記念品として選手や関係者にプレゼントされたこけしです。大きさは6寸、製作総数は12000本。そのうち数本が鳴子に現存していると言われています。

岡崎斉一工人の所蔵する「オリンピックこけし」は雑誌「こけし時代」などで紹介されご覧になった方も多いかと思いますが、上画像の作品は鳴子温泉街のとある商店で所蔵しているもの。描彩にバリエーションがあったことが分かります。

こちらはKokeshi Second Angle が所有する東京オリンピック寄贈こけし。
胴模様が「菱菊」になっているヴァージョンです。

鳴子中学校には当時「こけしクラブ(こけし教室)」という団体がありました。木地技術の継承と後継者育成を目的として、ろくろを使った木材工作や卒業記念品を製作するなどの活動を行なっていました。当時は卒業と同時に働きに出る生徒も多いため、現在の学校におけるクラブ活動よりもむしろ職業訓練プログラムとしての色合いが強かったと考えられます。

当時の校長先生の発案で「1万本プロジェクト」がスタートしましたが、選手たちへ送り届けるまでにはさまざまな苦労があったそうです。
木地挽きから描彩まで部員を中心に行ない、生徒たちも「臨時部員」となって製作に参加しました。生徒への技術指導は岡崎斉司工人をはじめ鳴子のこけし工人たちが担当しました。

背面には日本スポーツ少年団(JJSA)のエンブレムシールが貼付されています。これは五輪選手への記念品等の贈呈は体育団体を介して行なう必要があったためです。件のこけしも地元のスポーツ少年団員たちが作って寄贈した、という体裁になっています。

底面には「Kokeshi Room, Narugo J.H.School, Miyagi Pref. Japan」の英語表記。訳すと「こけしクラブ」ではなく「こけし教室」となっている点に注目。

底面中央部に直径1cmほどの穴が開いているのは、5カ国語(英、仏、独、西、日)で書かれたメッセージカードの巻紙を入れるためです(下写真参考)。

鳴子_東京五輪こけし_メッセージ巻紙_1964メッセージを読んでみると

「こけし」は数百年前から日本の東北地方に伝わる木製の人形で、武将の勝利を祈念するマスコットとしても愛用されていました。

というくだりがあるのですが、この説の由来となった文書や記述はいったい何だったのでしょうか? この箇所においては少なからずの創作があるのではないかと思ってしまいます。

1万本プロジェクトに携わった部員や生徒の中にはこけし工人の道に進んだ人もいます。ちなみに当時部員だった桜井昭寛工人は描彩を、クラブ部長を務めた岡崎斉一工人は主に木地挽きを担当したそうです。

さて、これら掲載画像のこけしは誰の手によって作られたのでしょうか?
いろいろと謎解きをしたくなる作品です。

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一度見たら忘れられない強烈な表情とフォルムで熱烈なファンも多い湯田こけしたちに集まってもらいました。

湯田こけし 左手前から佐藤佑介(佑一)、小林順子、佐藤佑介の各工人作。
左奥から小林定雄(2本・2015年)、小林善作(3本・1966年頃)の各工人作。

湯田_善作_1966頃 小林善作工人の晩期作品。「エヘッ」と言っていそうな微笑は善作工人独特の面描です。

湯田_佑介_善作_定雄沢内地域に伝わる昔話「およね伝説」をモチーフに作られたという髷こけし、「およねこけし」の三者三様。前出の2作と定雄工人の作品。

湯田_善作_1966頃湯田_善作_順子_佑一_85-86右の佐藤佑介工人(1986年作)は小林定雄工人から木地を教わり、北海道江別で製作していましたが現在は休業。中央の小林順子工人(1989年作)は定雄工人の息子さんの奥方で、仕事や家事の傍らで製作をしております。この表情、個人的にはとても気に入っております。

工人のご親族が仕事や家事の傍らで製作に携わったケースが湯田こけし界隈には多く見られ、中にはご近所の方によって作られた作品(藤戸一栄氏)も僅少ながら存在します。

こちらが藤戸一栄氏(1957- )の作品。
ありふれたことばで言えば、こけしの持つ素朴な美を見事に表しています。
この安定感のある作品を生んだのが当時14歳の、こけし作りを教わって間もない中学生だったという事実に驚愕されます。木地挽きや描彩も一人でこなしたというのだからさらに驚きです。


一栄氏は湯田湯本の生まれ。1971年頃から小林定雄工人に木地挽と描彩を教わりこけしを作ったとされています(→「全工人の栞」,下巻 p214.)。作品は東京都内の店舗に置かれ収集界では「期待の新人」と話題になったそうです。
定雄工人のこけし作りを見て興味を覚えた近所の中学生が、好奇心と努力と持ち前のセンスをもって作ったこけしは平地人(都市生活者)を驚愕せしめたわけです。

この作品を見ていると、自分自身が14歳のときにどんなことに興味を持ち、そして行動していたのかをふと思い返します。周囲からいろいろなことを教わりながらも「もう子供じゃないんだ」と突っ張ってみることで自らの可能性を知っていく年頃…ときに大人顔負けの力が出たりするものです。


底面にはしっかり「十四才」と書かれています。
さきの参考文献には「1年近くで転業」とありますが、学業や進学等で忙しくなり作る時間がなくなったのだろうなと思われます。別の作品に書かれた底面の署名には「十六歳」とあり、高校2年生頃までは製作していたことが分かります。

ちなみに一栄氏は現在も湯田湯本にお住まいです。地元ではマラソンランナーとして知られ、東北各地のマラソン大会に参加したり、地元の駅伝チームの監督を務めるなどご活躍を続けています(→西和賀町「広報にしわが」2011年11月号, p11(PDF))。

湯田_輝子
2015年の産地訪問の際にお話を聞かせていただいた小林輝子夫人の作品。

湯田_輝子輝子夫人は描彩のほかにも、自ら木地挽きも行なっていた時期があります。

ギャラリー