「こけし辞典」(以下、「辞典」)を読んだとき、ふと目に止まった工人の名前がありました。
その名は鳴子系の川合信吾工人。
(※「辞典」では苗字が「河合」と記載されていますが、記事では本名および作品の署名で使われている表記に則りました)
「辞典」に書かれた信吾工人に関する記述にとても謎多き印象を持ったのです。
誕生年が「1929?」とクエスチョンマーク付きであったり、鳴子温泉湯元の岸正男工人の弟子になり製作するも、昭和30年代頃から鳴子を離れて新型こけしの製作に移り「現在の消息は不明」という記述。とてもミステリアスです。ますます興味が湧いてきます。
さらに現在、ネットオークションなどでたまに信吾工人の中古作品が出品されることがありますが、「消息不明な工人なのに、新品と見まがうような保存状態の作品が出てくるのはどうしてだろう…?」とこれまたミステリーを感じます。
文献をあたってみると、信吾工人の名前が登場するのは戦後発刊されたこけし専門誌「こけし」(川口貫一郎編)で、高橋武男工人が寄稿した「鳴子の作者」です(1952年 第21号)。「こけし・人・風土(鹿間・1954)」のこけし工人表はさきの専門誌を参考にしており鳴子の現存工人として掲載されています。
1960年代〜70年代のいわゆる「第二次こけしブーム」の到来前に鳴子を離れたため、その間に多数出版された「こけし本」にその名前を見ることはありません。70年代の「こけし本」で唯一出てくるのが「辞典」です。この時点では「伝統こけしの製作から離れた過去の工人のひとり」だったわけです。
ふたたび信吾工人の名前が登場するのは28年後の1999年です。柴田長吉郎氏(1923-2015、元・東京こけし友の会会長)の著作「宮城伝統こけし(1999)」には90年代時点の鳴子系現存工人で小牛田在住であることが記されています。なお、信吾工人は2000年10月8日に70歳でお亡くなりになっています(こけし手帖・第478号「工人訃報」・2000)。なお、製作を再開したのは1982年です。
これらの文献から考えられるのは、さきの「状態のいい中古品」は80年代〜90年代に製作を再開した信吾工人によって作られたものだということです。一説によるとさきの柴田氏が信吾工人の場所を訪れ、製作を依頼したと言われています。製作再開後の作品は収集家の間で頒布されましたがその数は多くないと考えられます。
40年以上の空白を経て伝統こけし界に復活した信吾工人にいったい何があったのだろうか…? と思うところですが、実はその間も伝統こけしとのつながりがあったことを岸正規工人のご夫人よりお話をうかがった際に知りました。
お話の概要を箇条書きにしてみます。
・信吾工人は地元鳴子のご出身。実家は鳴子温泉駅の駅前通りで土産物の製造・販売を営む「川合商店」。
・1960年代に鳴子を離れ小牛田に移り、独立する。
・塩釜で溶接関係の業務に従事していたこともある。
・1978年頃まで仕事休みを使って岸こけし店へ出向き、こけし製作を手伝っていた。
・描彩がとても上手で、実直さと頑固さを持つ人物だった。こけしのほか、描彩を施した木製の壁掛けなども製作していた。
・ちなみに柴田氏と正規工人とのお付き合いは深く、こけし祭りのときは深夜までお店で談義していた。正規工人は読書家でクラシック音楽好き。特にベートーヴェンの作品が好きだったという。
「空白」と思っていた期間の出来事を知ることで、その工人人生は決して断絶していたものではなく、ゆるやかに連続していたことが理解できます。
ところで、伝統こけしについて調べようとすると1970年代以前の文献に頼ることが多く、中でも「辞典」は最有力なリファレンスとして活用されています。
「辞典」を読んでいて思うのは、各工人の経歴データの客観性と、作品解説における執筆者の嗜好が色濃く出た主観性が同居していることです。この文献を参考にするときはそこに注意する必要があるなと感じます。
この40年間に伝統こけし製作・趣味の世界は少しずつ変化をしていて、その「変化」を埋め合わせながら現在を見ていくととても興味深いです。当時はミステリーでも現在では事実が明らかになっているケースは多々ありますし、事実がひとつ分かるごとに作品の見かたも広がっていきます。
作品
こちらは再開前の作品で1950年代に製作されたと推定されます。「辞典」に掲載されていた作品とほぼ同型です。ちなみに寸法は1尺で署名なし。
戦後から1960年代は観光需要の増大により大量生産に対応したいわゆる新型こけしが盛んに作られた頃で、従来型のこけしを製作していた工人たちもその影響を強く受けました。
菱菊模様、大きい眼点など当時の鳴子量産型スタイルによく見られた容貌ですが、眼の描き方は一歩間違えると新型になってしまう危うさがありますが当時の流行に沿って描かれたものと考えられます。
頭部の水引手の形状、胴部の葉の描き方などから信吾工人作であると判断できます。